【道訓】
【名称】
日本空手道 拳和会 桑子派糸東流
【加盟団体】
(公財)全日本空手道連盟
日本空手道連合会
愛知県空手道連盟・岐阜県空手道連盟
全知多空手道連盟・東濃地区空手道連盟・中濃地区空手道連・西濃地区空手道連盟
【拳和会創立について】
1957年に、愛知県の知多半島では初めての空手道場を開設し、昭和45年(1970年)初孫の和也が誕生したのを機に「会」組織として発足したのが初代会長宗家桑子佳純です。
その後、堅実な門下生に支えられ、その意志を桑子則夫が継ぎ、拳和会は平成21年に「創立40周年」を迎えることが出来ました。
三代目 会長宗家 桑子 拳和(和也)
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★(公財)全日本空手道連盟公認 【七段・教士】 ★(公財)全日本空手道連盟公認 【全国組手審判員】 ★(公財)全日本空手道連盟公認 【全国形審判員A級】 ★(公財)全日本空手道連盟公認 【2級資格審査員】 ★(公財)日本スポーツ協会公認 【空手道コーチ4】 ★日本空手道連合会 【八段・教士・常任理事・技術委員】 ★愛知県空手道連盟 【副理事長】 ★愛知県空手道連盟 【強化委員長】 ★全知多空手道連盟 【理事長】
二代目 会長宗家 (故)桑子 拳和(則夫)
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昭和34年 初代会長宗家 桑子佳純に師事。「内剛外柔」の精神を受けつぎ、そのすべて絶対的な影響を受ける。
桑子佳純他界後、日本空手道拳和会会長宗家二代目を継承する。
【桑子佳純 平成元年(当時64才)の記述より】
初代 会長宗家
(故)桑子 拳和(佳純)
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昭和32年空手道場を武豊町南中根に建てた当時を思い出しますと、
すぐ東側に長尾山(現在の町役場の場所で中央塔が当時の丘の高さを示している)の松林があり、
北西約200mはなれた処に武豊中学校があっただけで電気も水道もなく、松林の間にある畑の中の一軒家が道場でした。
当時の練習生は、道場を建てる以前(昭和29年)半田市雁宿公園の広場を借り、
夜間外燈を利用して屋外での練習をしていた人が武豊へ移行し、約30名ほどいました。
公園では2年半ほど練習をしましたが、何しろ屋外広場の地面での練習のため、練習前に小石を拾い、
竹箒木で清掃をした後、練習をしたものです。
地面での正座、道場訓の合唱。
「礼に始まり、礼に終わる」厳しい練習でした。
夏は蚊に食われ、冬は寒中によく耐え練習したものです。
その頃は現在のように空手の良さが知られていませんでしたが、
私達は空手道を通じ、自分創り・自分に打ち勝つために修行に取り組んだものです。
真面目な人間でなければ続けることはできませんでした。(中略)
昭和34年伊勢湾台風で道場も屋根が吹き飛ばされ、道場の中から空が見えるひどい被害を受けたこともありました。
一時は道場閉鎖も考えたくらいでした。
しかし、練習生が早々とかけつけてくれて補修修理をしてくれたことでお互いの意思の疎通が胸にしみ再度練習を続ける気持ちが沸いて参りました。(中略)
昭和39年に全日本空手連盟が発足され、「日本体育協会公認連盟」体育空手という新しい道が開けてきました。
又、少年少女空手も普及され、日本空手から世界空手に発展、世界空手道連盟(WUKO)が設立され、各地で大会も盛大に行われております。
私が指導させていただいた方々が子を持つ親となり、その子供さんが練習に多数参加されています。
空手道の良さが理解されたことで喜ばしく思います。
私も親子孫と3代が一緒になって練習しております。
生ある限り、空手道の良き友として、微力ながら後進に尽くす気持ちでおります。
(桑子佳純 平成元年の記述より)
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